辞書雑感「ダメな辞書ほど手が掛かる」

最近、世の中に出回っている色々な辞書をひたすらチェックしているのだが、見ていると色々思う。それは、とても網羅的で良いことが書いてある辞書はファイル形式も洗練されていることが多く変換に手間がかからないのだが、下らない事ばかり書いてあって抜けが多い辞書ほどファイル形式に無駄が多く変換に手間が掛かる、という事だ。

世の中でフリーで出回っている辞書の多くは個人がボランティアとして自主的に作成している。だから辛辣に批判するのも気が引ける。だけど良い辞書を作るという観点に立つと不具合のある点は率直に話し合って解決すべきだと思う。だが実際上それは難しい。 問題は作者の性格の柔軟性にかかっている。往々にして辞書をフリーで作るような人は偏屈な人が多く、他人の意見を素直に受け入れる人などは稀だ。

僕は自他共に認めるベテランプログラマである。 で、色々な辞書作者ののウェブページを見ていると「いつかプログラムを書いて辞書をまとめたい」という風な発言をしている人が多い。 ちょうどよかった、僕がその手伝いを出来るプログラマだ。別に手伝ってあげても構わない。 ところがプログラムが必要だ、と言っている人の作る辞書はファイル形式にセンスがかけている事が多い。 見ていると「これは止めてほしかった」「あれも出来れば最初から使わないで欲しかった」という様な技術をテンコ盛りで使っていることが多く、ファイルを清書するプログラムの作成が困難である場合が多いのだ。 これではプログラムを書くのも一苦労である。

一方、出来の良い辞書を配布している人は、最初からファイル形式が洗練されいている事が多い。変換も手間がかからない。

辞書は、その大きさよりも「コンセプト」が大切だ、という点に於いてプログラムと似ているところがある。最近僕がお気に入りの辞書は、ラオスで売られている安物の緑色の辞書だ。 発音記号もついていないし、200mlの牛乳パック程度の大きさしか無い。 だが、語選がとてもよい。僕はラオス近辺で生活しているのだが、ほとんど毎日の様に使っている単語 ຕະล่าງ / ตะล่าง タラーング という言葉が載っている辞書が、何故か不思議な事に少ないという事に気がつく。 これは高床式住居の一階部分の事を指す名詞で、ラオ周辺の人は、ひねもす、風通しがよく涼しいタラーングに座って仕事をしたり昼寝をしたりする。 茶の間の様な場所だ。 何故かラオスでのこの超頻出単語であるタラーングが辞書に載っている事が少ないのだ。

何故か。 僕はこう思う。辞書は外人が作っている事が多いのだが、外人に取ってラオスの文化というのは旧世代の物であり、新世代の近代文化をラオス人に伝授するのが我々の役目である以上、ラオス人の生活スタイルなど注目に値しないと考えているのではないか。 そういう傲慢さが、辞書に現れているのである。

この僕のお気に入りの緑の小さな辞書には、ちゃんとタラーングが載っている。製本も悪くページが抜けていたりすることもしばしばある、この120円で売られている安物の緑の辞書は、実によいコンセプトを持っていると僕は思う。

一方、タラーングが載っていない辞書は、ラオスの人にしてみれば、自分たちの生活上の言葉と全く一致しない言葉ばかりが載っている使えない辞書である。

辞書を作る作業は信じられないほど莫大な労力を必要とする上、データ量としても大変な量がある。しかし、コンセプトが悪いと、どんな労力に立脚していても、どんなに大量なデータ量を誇っていても、ただのゴミである。 世の中の人に時間を浪費するという害をもたらす点ではゴミ以下だ。 これらの点がとてもプログラムと似ている。プログラムを作るのも大変な労力がかかるのだが、コンセプトが悪ければゴミ、いやゴミ以下の迷惑物なのだ。

厳しいことだが、プログラマとして、この厳しい現実を認めなければいけない。 辞書作成者も同様である。